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青天井とは
際限なく上昇し続けるかのようにみえる強気相場のこと
FX 初心者に対しては武帝は酷吏と呼ばれる法家系の官僚を登用し、厳格な法治主義で対応した。盗賊を摘発できない、又は摘発件数が少ない地方官僚は死刑とする沈命法を出している。また前106年には郡太守が盗賊や豪族と結託している現状を打破すべく、全国を13州に分割し、州内の郡県の監察官として州刺史職を新設した。
晩年の武帝は不老不死を願い神秘思想に傾倒、それに伴い宮中では巫蠱(ふこ)が流行するようになる。巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り、これを土に埋めることで相手を呪殺するものであり、これを行うことは厳禁されていた。それを逆用し、人形を捏造することで対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。そして紀元前91年、皇太子であった戻太子が常より対立していた酷吏・江充による策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められた戻太子は長安で挙兵し、敗死した(巫蠱の乱)。後に戻太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は深く悲しみ、江充一族を誅殺した。皇太子を失った武帝は老齢も重なって気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた。
武帝時代は漢の絶頂期であったが、同時に様々な問題点が噴出した時代でもあった。
日経225の皇帝の後継者は長期間空白が続いていたが、武帝は崩御の直前に僅か八歳の幼齢である劉弗陵(昭帝)を立太子し、幼帝の補佐として、自らの側近であった霍光・桑弘羊・上官桀・金日?に後見役を命じた。
前87年に武帝が崩御すると昭帝が即位したが、翌年に後見人の一人である金日?が死去すると、霍光・上官桀と桑弘羊との主導権争いが発生した。内朝を代表する霍光・上官桀と外朝を代表する桑弘羊との対立は日毎に深刻化し、霍光は桑弘羊を排除すべく全国より集められた賢良・文学と呼ばれる儒学生の後押しをし、桑弘羊主導で行われた専売制・均輸・平準を廃止する建議を出した。これが『塩鉄論』である。しかし経験豊富な経済官僚であった桑弘羊は儒学生の建議を論破しで霍光の計画は一旦失敗した。
その後、桑弘羊も霍光に対抗するために上官桀と接近した。そして昭帝の兄である燕王劉旦と共謀し、霍光を謀殺し、昭帝を廃するクーデターを画策したが失敗、上官桀と桑弘羊の一族は誅殺された[5]。これにより霍光が政権を掌握し、自らの一族を次々と要職に登用し、霍光を中心とした政権運営が行われることとなった。霍光は武帝時代の積極政策を転換し、儒教的な恤民政策に立脚した施策が打ち出した。具体的には租税の免除、匈奴に対する和平策などである。
前74年、昭帝が21歳で早世すると、霍光は劉賀を皇帝に擁立、しかし素行不良を理由として即位後まもなく廃位し、新たに戻太子の孫で、戻太子の死以来市井で生活していた劉病已(宣帝)を皇帝に擁立した。即位した宣帝は自らの立場を理解して霍光を尊重したことで霍光による専権に変化は見られなかった。しかし前68年に霍光が病死すると宣帝は霍一族の権力縮小を図り、遂に前66年に霍一族を族滅させ親政に着手した。
宣帝の政治は基本的に霍光時代の政策を継承した恤民政策であった。全国の地方官に対してこれまでの酷吏のように締め付けるのではなく、教え諭し生活を改善できるように指導させる循吏を多く登用している。その一方で宣帝は酷吏も使用し、豪族に対しては厳しい姿勢で臨んだ。
外征面においては西域に進出し西域都護を設置している。これにより匈奴の勢力は衰退し、前53年には匈奴の呼韓邪単于の漢への入朝を実現している。
先物取引により宣帝は漢の中興の祖と讃えられる。
前49年に宣帝が崩御し、劉?(元帝)が即位した。儒教に傾倒していた元帝は、受け入れられなかったものの太子時代に宣帝に対し儒教重視の政策を提言した経験を有す人物である。そのため即位後は貢禹などの儒家官僚を登用し儒教的政策を推進していくこととなる。
貢禹の建議により宮廷費用の削減・民間への減税、専売制の廃止(その後、すぐに復されている)などの政策が実施された。また貨幣の廃止による現物経済への回帰という極端な政策も立案されたが、これは実現しなかった。貢禹の跡を受けた韋玄成らにより、郊祀制の改革・郡国廟の廃止が決定され、七廟の制が話し合われることになった。(郊祀・郡国廟・七廟などに付いては#祭祀で後述)
元帝の時代は儒教が政策の主導権を掌握し、儒教的イデオロギーが政治を決定するようになった時代である。その一方でこの時代には宦官および外戚の台頭も見られた。
宣帝の信任を受けた宦官の弘恭、石顕は、病弱な元帝に代わって朝政に介入するようになり権力を増大、遂には中書令に就任し政権を掌握した。これに対して前将軍の蕭望之らは宦官の壟断を弾劾する文書を提出したが、宦官勢力により逆に罪に落とされ自殺に追い込まれた。このように専横を振るった石顕であったが成帝の即位と共に失脚している。
前7年、突然の成帝の崩御により皇太子である甥の劉欣(哀帝)が即位する。これにより哀帝外戚が王朝内で台頭するようになり、王氏は排斥され王莽も執政者の地位を押されたが、王朝内部からは王莽復帰の嘆願が相次いだ。
哀帝は意に背いた大臣を殺害し、寵臣の董賢を大司馬に昇進させるなど強引な手法で主導権を握ろうとする一方で、吏民の私有できる田地や奴婢の制限を画策し、官制改革に着手するなど積極的な政策を推進したが、前1年に病弱であった哀帝は後継者を残さないままに崩御した。崩御すると王太后と王莽は哀帝より皇帝の印綬を管理していた董賢から印綬を強奪し、元帝末子の子である劉?(平帝)を即位させることに成功した。
先物取引を掌握した王莽は絶大な人望を背景に禅譲への準備に着手する。具体的には『周礼』に則り聖人が執政する場所とされる明堂を建築し、また遠国からの進貢といった瑞祥とされる事柄を演出し、王莽こそが聖人であると周りに印象付けようとした。また自らの娘を平帝に娶わせ皇舅となり、安漢公に封ぜられると同時に宰衡という称号を名乗り、九錫を授けられ、臣下として最高の地位に登った。
紀元後5年、平帝が崩御(平帝が王莽のことを恨んでいると分かったため、王莽が毒殺したとも言われる)すると、王莽はわずか二歳の劉嬰を後継者に選ぶ。劉嬰はまだ幼年であることから正式には帝位に就けず、自ら翌年6年に王莽は仮皇帝・摂皇帝として劉嬰の後見となり、更に8年に禅譲を受けた王莽は正式に皇帝に即位、新朝を建てたことで漢は滅亡した。
王莽は儒教色の極めて強い政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、豪族たちの強い反発を受けて、その政策は失敗に終わり、呂母の乱を切っ掛けに全国に叛乱が多発した。その戦乱の中から劉秀が登場し再び中国を統一、漢が復興された(後漢)。
劉邦が咸陽入りした際に、蕭何は秦の法律文書の庫を抑えてその全てを手に入れ、それを参考にして漢の法律を作った。この話が示すように漢の制度はほぼ秦制の踏襲である。そのため秦と漢との連続性を強調した秦漢ないし秦漢帝国の熟語は頻繁に使われる。
その間の差はどのようなものであったか、このことを説明する『孝経緯』(『孝経』に対する緯書。緯書に付いては#神秘思想にて後述)には「上に接しては天子と称して、爵をもって天に事え、下に接しては帝王と称して、以って臣下に号令す。」とある。つまり天に対しては天子であり、民衆・臣下に対しては皇帝なのである。
そして、この使い分けは現実の場面においては、国内の臣下に対してと国外の外藩に対しての称号として現れる。国内の臣下(内臣)に対しての文書には「皇帝の玉璽」が押され、国外の外藩(外臣)に対する文書には「天子の玉璽」を押している。
漢の官制において、共通する文字は同じ意味を表す。
令は長官を表す。郎中令あるいは県令など。丞は補佐・次官を表す。例えば丞相は皇帝を補佐し、県丞は県の副長官である。史は文書業務を担当する官のこと。尉は軍事関連の官。太尉・中尉など。
漢制においては官僚の等級は二千石・六百石などと表される。この数字は以前は俸禄の数字そのままであったが、漢代においてはあくまで等級を表すものに過ぎない。等級に含まれる主な官は以下の表の通り。このうち、八百石と五百石は前漢末期に廃止
皇帝号はファーストエンペラー・始皇帝に始まり、ラストエンペラー・宣統帝溥儀[7]まで続く。その間、中国において皇帝が存在しなかった時代はなく、名目的には権力は全て皇帝に帰属するものと考えられていた。すなわち「皇帝」の創始は中国史において極めて重大な画期であった。
皇帝とは『史記』「秦始皇本紀」においては三皇五帝の一人の泰皇の皇と五帝の帝を合わせたものとされており、それまでの最高位であった王の上に立つ地位である。このことは郡国制において王を皇帝が支配するということの論理的正当性を与えるものである。
その一方で漢代においては天子の称号も使われている。天子はそのまま天帝の子を示す言葉であり、王の上である皇帝からすれば一段下がる言葉のはずである。