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商いとは
売り買いのこと
不動産投資は三公の下に九卿[9]と呼ばれる諸部署が配置されている。この三公九卿はその役割において大きく二つに分類される。一つは政府の中心として全国を統治するための機関であり、もう一つは国家機関というよりも皇帝とその一族の家政機関としての役割を持つものである。前者に分類されるのは以下のようなものである。
丞相→相国(紀元前196年)→左・右丞相(紀元前194年)→丞相(紀元前178年)→大司徒(紀元前1年)
民政を中心とした政治の最高職であり、皇帝を助けて万機を総覧する。実際においては朝議を主宰し、その朝議の結果を皇帝に上奏し、認可を得て行政化する。また自らの官衙である丞相府を率いる。その員数は多いときで400近くにまでなった。
御史大夫→大司空(紀元前8年)→御史大夫(紀元前5年)→大司空(紀元前1年)
御史大夫は丞相を助けるいわば副丞相である。御史府を率い、政策の立案を行い、それを丞相に伝える役割を負う。また属官の御史中丞は官僚の監察を行う。
太尉→廃止(紀元前129年)→大司馬(紀元前119年)→大司馬将軍(紀元前119年/大司馬は将軍位に付される称号のようなもの)→大司馬(紀元前8年/将軍位に付かない独立した官位)→大司馬将軍(紀元前5年)→大司馬(紀元前1年/将軍位に付かない独立した官位)
ワラントを司る役職である。
治粟内吏→大農令(紀元前143年)→大司農(紀元前104年)
国家財政を司る。農業の管理、税の徴収および管理、官僚の俸給、経済政策の実施などが管轄である。
廷尉→大理(紀元前144年)→廷尉(紀元前135年)→大理(紀元前1年)
廷尉は法の執行を司る。全国的な刑罰を行い、地方の郡県の司法官の権限を越える刑罰をも行う。
典客→大行令(紀元前144年→大鴻臚(紀元前104年)
典属国(紀元前28年に大鴻臚に吸収合併される。)
典客は諸侯および地方官らが上京した時の相手を担当し、典属国は外藩の相手を担当する。
これに対して後者(皇帝の家政機関)に分類されるものは以下のようなものである。
少府
くりっく365が国家財政を司るのに対して帝室財政を司るものである。それに加え、機密文書・後宮などの管理も行う。後者に属する官の中でも最重要であり、その属官も多い。機密文書を取り扱う尚書(尚書令・尚書僕射)、宮中の医療を取り扱う太医令、食事を取り扱う太官令など。
水衡都尉
紀元前123年に少府より分離して設立。貨幣の発行などを司る。
郎中令→光禄勲(紀元前104年)
郎中令は主に皇帝の身辺警護を扱い、それ以外の皇帝の身辺に関することも扱う。
衛尉→中大夫令(紀元前156年)→衛尉(紀元前142年)
中尉→執金吾(紀元前104年)
衛尉は宮中警備・防衛、中尉は首都長安の警備・防衛。
太僕
皇帝の車馬及び軍馬等の管理。30万頭もの馬を養っていたという(『漢官儀』)。
宗正→宗伯(4年)
皇族(宗室)および外戚に関する全てを扱う。
奉常→太常(紀元前144年)
外為の祖先祭祀を全て扱う。
このように国家の統治機関と皇帝の家政機関とが並立しているのが漢制の大きな特徴である。そして家政機関の規模は統治機関の規模を上回るものであった。元帝時代に大司農(治粟内史から改称)の扱う金額が年間40億銭に対して、少府とそこから分離した水衡都尉の扱う金額が43億銭であった。
また当時の官僚は全て一旦皇帝の郎官になってから官僚となるのが通例であった。郎官とは皇帝の側近として身辺警護などを勤める役であり、郎中令に属する。郎官は皇帝の身近に侍ることで皇帝との間に私的な繋がりを持つようになる。
このような制度は当時の官僚制が近代的なそれとは違い、未だ皇帝の私的機関としての色彩を濃厚に持つことを示している。
地方制度は基本的には秦の郡県制を受け継ぐが、それと同時に皇族を封建して諸侯王となす並立制を布いた。これを郡国制と呼ぶ。諸侯王に付いては後述。
行政の最大単位は郡であり、その長は守(郡守)である。その属官には次官たる丞、軍事担当の尉がある。郡の下の単位が県であり、その長は一万戸以上の場合は令・万戸以下は長と呼ばれる。その属官は郡と同じく丞と尉である。景帝の紀元前148年に守は太守・郡尉は都尉とそれぞれ改称される。なお辺境においてはこれと若干異なるがそれは#兵制の項で記述する。
外為の紀元前106年に全国を13の州に分けて、その中の監視を行う部刺史が創設された。首都周辺は皇帝直属の監察官である司隷校尉が同じ役割を果たした。当時、太守が豪族たちと結託して悪事を働くことが多かったので、その監察を任務として刺史が創設された。当初は太守の秩二千石に対して秩六百石と格の上でもはるかに低く、また一定の治所を持たず、州内を転々としていた。紀元前8年には牧と改称され、名称は牧と刺史の間で何度か変わり、時期は明確には特定できないが、刺史は監察官から州内の行政官としての権力を持つようになった。
ここまでが政府より定められた行政単位であり、その下の単位として郷・亭・里と呼ばれる組織がある。これに付いては#農村・都市を参照。
呉楚七国の乱の際の諸侯王勢力図。黄色が直轄領、赤が諸侯国郡県と並立する諸侯国に関して。当初の高祖時代には韓信を初めとした戦争で手柄を挙げた功臣たちを封建し、諸侯王とした。しかし高祖はこれら百戦錬磨の功臣たちと自らの皇太子(恵帝)を比べた場合、皇太子はあまりにひ弱に思えた。そこで高祖はこれら異姓の諸侯王たちを粛清して、自らの親族たちを諸侯王に付けて、自らの死後の劉氏政権の安定を図った。
しかし文帝の時代になると藩屏として期待された諸侯王たちには劉氏の本流たる中央の朝廷に対して反抗的な姿勢が目立ち、またこれらの諸侯王の権力・領土があまりにも大きくなりすぎたために中央政権の安定と言う観点からは問題が出てきた。
この頃の諸侯国は中央と同じような自らの朝廷を持ち、そこには丞相・御史大夫などの中央朝廷と同じ名前の官がいた。このうち、丞相のみは中央からの派遣であるが、その他の官は全て諸侯王の任命するところであった。であるから基本的に諸侯国の内政は諸侯王によってなされるものであり、中央もそれに口出しすることは出来なかった。諸侯国の中でも最も大きな呉国は領内に鉄と塩の産地を抱え、民衆に税をかける必要がない程に富んでいたという。これらのことが示すように当時の諸侯国は半独立国であり、中央朝廷からすれば目の上のたんこぶであった。そこで諸侯王の権力を削ることを進言したのが文帝期の賈誼と景帝期の晁錯であり、これに対する反発から呉楚七国の乱が起こった。
乱の終結後、諸侯王の領地における行政権を取り上げて、中央が派遣する官僚に任せ、諸侯王は単に領地から上がる税を受け取るだけの存在へと変え、これにより諸侯王の力は大幅に削られた。しかしその後も中央に対して反抗的な態度に出る諸侯王が絶えなかったために、紀元前127年に諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す「推恩の令」を出した。これは元々賈誼が考えた案に基づくと思われるが、武帝期に主父偃の献策によって実現し、この令により、諸侯王の領地は代を重ねるにつれ細分化されたため、諸侯王が中央政権を揺るがす心配はなくなった。これらの政策によりほぼ郡県制と変わりはなくなった。
武帝以前からの官吏採用制度は任子制と呼ばれる。ある一定以上の役職にある官吏の子を採用する制度である。
地方軍の単位は郡単位であり、統括者は太守である。太守の下で実際に軍事に携わるのが都尉である。通常都尉は郡に一人だけであるが、軍事的に重要な辺境の郡などでは複数おかれる場合があり、これを部都尉と呼ぶ。また太守の軍事面での副官として郡長史が付く。
これらが平時体制である。遠征の際にはこれら軍兵をまとめるための将軍が置かれる。「将、軍にありては君命も受けざるところあり」と言われるように将軍は人事権や懲罰権などその軍に付いてはほぼ全権を持っていた。将軍の最高が大将軍である。大将軍はその他の将軍に対する命令権を持つ特別の将軍である。大将軍の次に位するのが車騎将軍・衛将軍であり、それに加えて票騎将軍が霍去病の活躍により前期の三将軍と同格とされ、この四将軍の位は三公に匹敵した。この次にくるのが左右前後の四将軍である。これに加えて任命される時に名前も同じく付けられる雑号将軍がある。また偏将軍および裨将軍があり、これは独自の軍は率いず、他の将軍の下に入って指揮するものである。