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上げ足とは
相場が上がっていること、又はその上がる歩調(足取り)を指す
株
は人頭税・土地税・財産税の3種類に分かれ、更に労働税として兵役と徭役がある。人頭税には16歳から56歳までの男女に付き年間120銭=1算を収める口算と7歳から14歳までの男女に付き20銭を収める口賦がある。財産税は咨算と呼ばれ、財産1万銭に付き年間1算を収める。口算と咨算を合わせて算賦と呼ばれる。また商人は口算を2倍を収めねばならない。農業に対する税は収穫高の30分の1を収めることになっていたが、この税額は極めて薄く、時にこの税は廃止されたこともあるので国家財政の主要な部分は占めていなかったようである。
労働税は年間に決まった期間を労働あるいは周辺防衛に費やすことを義務付けられいたが、300銭を収めることで労働を逃れることが出来た。この銭のことを更賦と呼ぶ。
武帝期になると相次ぐ遠征費用を捻出するために算?銭(?は糸偏に昏)と言う税を加えた。これはそれまでの咨算の額を引き上げて、商人には財産2千銭に付き1算(一般民衆の5倍)を手工業者には4千銭に付き1算(一般民衆の2.5倍)を課すものである。またそれとは別に個人が持つ車と船に対する税・算車令と算船令を出し、更に口賦の額を3銭引き上げて23銭とした。
株は主に商人が対象であり、#豪族で述べる抑商政策の一環でもある。またこの令には罰則があり、財産を偽って報告した者は財産を没収の上に国境警備へと強制的に回されると言う非常に厳しいものである。この増税策により相当な額が国庫に流れ込み、武帝の政策を支えたが、その一方で破産した商人達は地方の窮迫農民と手を組んで盗賊行為を働くようになり、武帝末期の社会不安の主要素となっている。
成帝期に書かれた農書『氾勝之書』には当時生産されていた農産物として、キビ・ムギ・イネ・ヒエ・ダイズ・カラムシ・アサ・ウリ・ヒサゴ・イモ・クワなどを挙げている。
当時の農業技術はどのようなものであっただろうか。戦国時代から鉄制農具と牛耕が普及し始め、大幅な生産力の向上をもたらした。しかし漢代においてはいまだ地方によっては普及していないところも多かったと考えられ、地域による生産力の格差はかなり激しかったと思われる。この時代には苗床が作られず、二毛作もまだ存在しない。
ipoには武帝末期の趙過という人が考えた代田法という農法があることを記述している。その具体的な内容に付いては記述が曖昧でどう解釈するかに議論があるが、二頭のウシと三人の人間によって行われるものであったという。しかし民間でウシを二頭持っている者は少なかったのであまり好まれなかった。そこでウシを使わない方法も考案されたという。また『氾勝之書』には区田法という農法が記されている。
牧畜は、一般農民でもブタやニワトリ・イヌなどを飼うことはごく普通に行われており、家畜小屋が併設されていた遺跡も多数発掘されている。ウマやウシの生産はこれとは別に豪族たちの手によって大規模な牧場で行われ、特に遠征が相次いだ武帝期にはウマの生産は奨励されたためにこれで財産を築いたものも多かった。
商業と同じく戦国から秦漢は手工業の発展時期でもある。手工業者は商人と同じく差別された存在であったが、それを物ともしない強い経済力を誇っていた。
この時代においては前述したとおり、一般民の間ではまだ自給自足の風が強く手工業で賄われるのは一般民では作り得ない特別な道具(例えば鉄制農具など)かあるいは王侯貴族たちが使うための品に限られる。
個人向け国債たちが使うための品は主に官営の工場である尚方・考工室・東園匠・織室などが作り、これは全て少府の管轄するところである。尚方では宮中にて使うための武器・装飾品・銅器などが作られ、考工室ではより実用的な武器・漆器・銅器などが作られた。東園匠では貴人の埋葬に使うための棺や明器(埋葬者が死後に使うために置かれる実物を模した土器)などが作られ、織室では儀礼用の織物が作られた。また大司農では農民に支給する鉄制農具が作られた。
民営の手工業として最も大きなものは塩と鉄で専売制実施と共に禁じられはしたが、密売が絶えなかった。これに関しては#専売制で後述。それ以外にも酒や絹織物などは手工業として成立していたと考えられる。
武帝期の紀元前119年に始まった塩鉄専売制は国家財政の非常に重要な位置を占めており、武帝末期には既に必要不可欠のものとなっていた。塩も鉄も製造には厳重な監視が付いており、その産物は全て国家が買い取り、密造は厳罰に処せられた。塩製造を管理する官吏を塩官と呼び、鉄の方は鉄官と呼ぶ。しかし政府の目をかいくぐって密造を続ける者も多く、それらは官製のものに比べればはるかに安価であったので民衆からも喜ばれた。
武帝死後に「民衆と利益を争うのは儒の倫理に反する」として専売制の廃止が話し合われたことがあった。この議論の模様は後に『塩鉄論』という書物に纏められるが、この実態は内朝の代表である霍光が外朝の代表である桑弘羊を追い落とすために画策したものであった。桑弘羊はこれに反論して退けるが、このことは儒教の勢力がそれほどに強くなったことを示してもいる。その後、桑弘羊は別件で殺されるが、霍光政権下でも廃止されることはなかった。
資産運用になると儒教の信奉者である元帝の意向により、一時期廃止された。しかし財政が立ち行かなくなることが明らかであり、すぐに戻された。
漢代においては皇帝・豪族・小農民の三者が社会の主な構成要素である。このうち、皇帝と小農民の関係が最も重要であり、皇帝および政府はこれら小農民一人一人を個別に支配しようとしていた。これを個別人身的支配と呼ぶ。
当時の農民の1戸の家族の平均的な人数は5人で、竪穴式住居に一家同居する者が多かった。一家が所有する耕作地は大体100畝(660a)でここから年間150から200石(4.6tから6.2t)ほどの収穫があった。戸内の者は戸主を筆頭として戸籍に登録され、これを基として課税や徴兵が行われた。
現在見つかっている漢代の竪穴式住居跡は5、6人が同居するのが精一杯の広さであり、次男・三男がいた場合にはいずれは分家する他はないのであるが、分家するほどの財産を一般農民が持つはずもなく、財産は一人だけが受け継ぐのが基本であった。無一文の者たちは国家の官田を耕したり、遊侠になったり、豪族たちの仮作人(小作人)・用心棒になったり、悪い者は奴婢に身を落としたと考えられる。ただしそのような末路が見えている訳であるから最初から子供を一人以上作らない、できたとしても間引きされたという場合も多かったと考えられる。
概ね100戸が纏まって里(100とは必ずしも限らない)となり、その里がいくつか集まった集落は大きさや重要度によって上から県・郷・亭と呼ばれるようになる。[17]
漢以前の戦国時代においては集落は基本的に城塞都市であり、これを邑と呼ぶ。邑は元々は氏族が一纏まりになって生活するものであり、そこからは異姓の者たちは排除された。しかし漢代にはこれが変化して、異姓の者でも受け入れられるようになっていた。集落の周辺は城壁が囲っており、更に内部も里ごとに土塀(閭)で区切られていた。閭には一つ門(閭門)が設けられており、夜間に閭門を抜けることは禁じられていた。農民は朝になると城門を抜けて集落の外に出て、耕作に従事し、日が暮れるとまた門を抜けて集落の中に戻ってくるというサイクルを繰り返す。戦国までは城壁の中にしか居住していなかったが、漢代になると貧しい者は城壁の外に家を構え、より遠くにある田畑まで行く生活をしていた。
長楽宮
都の東南部にあり、これは基は秦咸陽の離宮であった。高祖はここに住んだが、その後は皇后の住居となった。
未央宮
西南部にあり、蕭何により建造され、恵帝以後の皇帝の住居となった。
北宮
その名の通り北部にあり、廃された皇后などが住んだ。
桂宮
これも北部にあり、武帝の時に作られた。
また丞相府・御史府などの三公九卿府があったが具体的な位置は不明。北西部には東市と西市があった。
当時の長安城内の人口を宇都宮清吉は10万9421人と推定している[19]。
漢の二十等爵制は秦のものを受け継いでおり、最低の一位・公士から最高の二十位・列侯[21]までの全部で20段階あり、列侯の上に諸侯王があり、更にその上に皇帝がある。
爵位を持っているものはそれと引き換えに免罪特権があり、これを求めて金銭による売買が行われた。