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足とは
1)チャート内で実際の相場の上げ下げを描いたもの
日足(ひあし) → 日単位のチャート
週足(しゅうあし) → 週単位のチャート
月足(つきあし) → 月単位のチャート
節足(せつあし) → 節単位のチャート
2)損のこと。「足を出した」などと使われ、損失を出したことをいう
商品先物取引には社(しゃ)があり、祭礼が行われた。有力者は父老と呼ばれ、纏め役となる。父老の中から県三老・郷三老が選ばれ、それぞれ県・郷の纏め役となった。また大きな集落の中心には市があり、交易が行われ、集落の者が集まる場となった。この市は自然発生的なものではなく、政府により管理されるものである。そのため罪人の処刑も市で行われる。
漢の長安城は現在の西安市から北西に5kmほど離れた渭水の南岸にあり、渭水の対岸には秦の咸陽城があった。高祖は初めは周の都であった洛陽に都を構えるつもりであったが、婁敬と張良の進言により長安を都とし、その後蕭何によって広壮な宮殿が造られた。1956年より遺跡の発掘が進められている。
漢の長安は唐の長安とは違い、方形ではなく歪な形をしていた。それぞれ城壁は東は5940m・西は4550m・南は6250m・北は5950mある。東西南北に3つずつの計12の門があり、これも夜間には閉じられる。主な建築物として、
漢代においては皇帝の即位や皇太子の元服などの慶事に際して一般民に対しても一律に爵位の授与が行われており、前漢・後漢合わせて200を超えた回数が行われている。このことは年齢が高くなればそれだけ爵位が高くなるということに繋がる。漢が行った爵位の授与は当時崩壊しつつあった「歯位の秩序」、つまりは年長のものが偉いという秩序を「(年齢に応じて高くなる)爵位の秩序」によって再構成し、村落の共同体としての機能を国家が肩代わりし、民衆一人一人に対して漢政府が支配力を及ぼそうとする目的があったとされる。
投資信託、七位の公大夫までは民衆でも得ることが出来、九位から上は官吏でなければ得ることは出来ない。官吏は民衆の秩序からは飛び出た存在であり、郷挙里選によって官位を得た豪族が民衆の支配者となれたのもここに一因があると考えられる。
前漢における豪族は後代に比べればまだその勢力は小さい。しかしその存在は大きな社会問題となっていた。
一般農民の住む家は5人が住むのがせいぜいであったが、豪族は2階立て・3階建ての豪邸に数世代の家族が同居していた。また回りを威圧し、盗賊を防ぐために常日頃からゴロツキを用心棒として雇い、家に住ませていた。そして所有する土地に小作人や奴婢を使役して耕作させ、ここから挙がる収益で更に財産を積み重ねていった。小作人はその収穫の1/2から2/3を地主に収め、残りで細々と生活していくことになる。これら豪族は里の父老となっている場合も多く、里の住民たちに命令を下していた。更に選挙で一族の者を官吏となし、更に強い支配力を郷里に対して発揮した。
外貨預金たちがそのような財産を積み上げたのは戦国時代から貨幣経済が活発化し、それに乗って行った商業が基になっていた。文景の治の時代の平和により、商人たちは富を蓄え、それに伴い富の偏重・農民が商人に転職することが増えたことによる農村人口の減少・中小農民の窮迫など数々の社会問題が表面化してきた。これらの商人は経済力を元に窮迫した農民達から土地を買い取り、農民達を小作農として囲い込み、地方に強い力を持って豪族化して行った。
これらの勢力を抑えるために前漢では度々抑商政策を取っており、#税制で述べた税制上での差別や#身分制に置ける差別政策を行ったが、あまり効果はなかった。晁錯は抑商政策の一環として穀物で税を納めた者に爵位を与えると言う政策を提案した。それまでの税は銭で収めることになっていたが、農民達の収入は当然穀物であり、徴税期に一斉に農民が穀物を売りに走ることで商人に足元を見られて買い叩かれていたのである。この策により商人が積極的に穀物を買い求めて、農民に金銭が多く入り、窮迫することを防ごうとしたのである。最高では18位の高位まで得ることが出来たので、この政策は効果を上げた。
CFDで最も特筆すべきは武帝期の均輸・平準法である。これらの政策は武帝の元で経済的手腕を振るった桑弘羊が実施したものである。均輸法は全国の物価を調査して安い所の物資を買い、高い所で売り払うことで国家収入と共に物価の地域格差をなくすことを図るものである。平準法は安い時期に物資を買い込んで国庫に積んでおき、それが高騰した時に売り出して国家収入と共に物価安定を図るものである。この政策には物価の安定と共に商人が物資の取引に介在することで商人に利益を与えることを防ぐ目的がある。この政策はかなりの効果を上げ、相当額が国庫に流れ込んだ。
この武帝の抑商政策と五銖銭の発行とを契機として、以後中国の貨幣経済は衰退に向かう。それに伴い豪族たちは武帝期から後漢にかけて自らの持つ所有地の中でほぼ完全な自給自足体制を作り上げた。この中には奴婢や小作人を囲い込み、周辺の郷里との関係を深めて共同体を形成していく。
前述したとおり、皇帝・豪族・小農民が漢の社会の主要な構成員であるが、それに加えていわばこれの埒外に存在したのが遊侠である。
遊侠は小農民の次男・三男、罪を犯して郷里にいられなくなった者、など社会から排除された境遇のものたちが集まり、勢力を築いていった。それを取りまとめた者が『史記』『漢書』の遊侠列伝に収められている朱家や劇孟といった人物たちであり、その勢力は豪族どころか中央政府すら無視し得ないものになっていた。
例えば呉楚七国の乱の際に政府側の総大将であった周亜夫は劇孟に対して「もう諸侯たちが貴方を味方につけていると思ったが、そうではなかった。これで東には心配する者がいない。」と述べている。国を二分するほどの大乱において影響力を発揮できるほどの勢力があったということである。
不動産投資は遊侠の持つ任侠精神は前漢においては遊侠に留まらず、全ての人間関係に敷衍されており、皇帝と官僚の関係もまたこの任侠精神に基づくものだと述べている。この時代の時代精神に任侠が深く関わっていたことは間違いないであろう。『史記』『漢書』にある「遊侠列伝」と『後漢書』にある「方術列伝」「逸民列伝」はそれぞれ前漢と後漢の時代精神の違いを如実に表していると言える。
法の上での差別を受けていたのは奴婢と罪人であり、これに対して一般民は庶人ないし良人(良民)と呼ばれる。
奴は男奴隷・婢は女奴隷のことで、借金により身を売らざるを得なかったものなどが直接買主に売られるか、あるいは市場にてウシやウマと同じく檻に入れられて売買された。主な購入層は豪族であり、「耕はまさに奴に問うべし。織はまさに婢に訪うべし」という言葉があるように豪族の土地を耕作したり、手工業に携わるなどをしていた。また政府によって管理される官奴婢もあり、こちらは罪を犯した官吏とその家族・戦争捕虜などがその主な供給源で、国有地(官田)の耕作や土木工事などに使役されていた。奴婢は主人の財産として看做され、戸籍にも登録されず、奴婢の子供もまた奴婢とされた。
奴婢や罪人は法の上で明確に差別された存在であるが、それとは別に庶人階級の中で蔑視されていたのが商人・手工業者・医者などといった職業である。
史書(『後漢書』)によれば、後漢代の西暦105年に蔡倫が樹皮やアサのぼろから紙を作り、和帝に献上したとされている。この記述より、従前は紙の発明者は蔡倫だとされたこともあった。しかし、現在では、前漢代の遺跡から紙の原型とされるものが多数見つかっている。こんにち、世界最古の紙は中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものだといわれており、この紙には前漢時代の地図が書かれ、年代的には紀元前150年頃のものと推定されている。
漢代の思想史を大まかに言えば、前漢初期に黄老思想と刑名思想が主導権を取り、董仲舒の建言を期に儒教が勢力を伸ばし始め、元帝の時に完全な主導権を握り、王莽から光武帝の時代にかけて儒教国家と呼ぶべき体制が出来上がったと言える。
始皇帝の焚書と項羽の咸陽焼き討ちにより儒教の経書は一旦そのほとんどが失われた。漢初に口述筆記による復元が行われ、さらにその後に壁の中に隠しておいたものが発見されるなどして経書が復元される。