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小豆とは
商品取引業界では習慣的に「しょうず」と呼んでいる
外国為替とは五経である『詩経』・『書経』・『礼経』・『易経』・『春秋公羊伝』それぞれを専門に学ぶ博士のことで、のち宣帝の時に増員されて十二となっている。
しかしこのようにテキストがばらばらな状態であることは非常に不便である。そこで成帝期の劉向・劉?親子により、テキストの整理が行われ、これらは一本化されることになった。現在伝わる経書はこの時に整理されたものを基にしているものが多い。
また劉向・劉?親子は古文派であり、この時代に新しく発見された古文である『春秋左氏伝』・『周礼』が持て囃されるようになる。のち、『周礼』は王莽の政権樹立の際に論理的根拠として使われ、『左氏伝』は魏晋以降、三伝の中の中心的位置を占めることになる。
また前漢末期には緯書が流行を見せることになる。これに関しては#神秘思想で後述。
前述したとおり、漢初に思想界で主導権を握ったのは黄老の道と呼ばれる思想である。黄は黄帝・老は老子のことで、道家の分派の一つである。信奉者として挙げられるのが高祖の功臣の一人曹参である。曹参は斉の丞相を努めていた際に蓋公なる人物がこの黄老の道を良く体得していたのでこの言葉を聞いて斉を治めたという。その後、曹参は蕭何の跡を受けて中央の丞相となったが、蕭何の方針を遵守し、国を良く治めた。
FXにも景帝の母・竇太后は黄老の道を信奉していたと言い、当時の支配階層の間で黄老が主流であったことが分かる。『史記』「楽毅列伝」には曹参に至るまでの黄老の道の学統が記されており、河上丈人という人物がその初めにある。この河上丈人という人物が何者なのか、実在の人物なのかなどは全く分からない。また黄老の道がどこから始まり、どのような発展の道を辿り、漢代においてなぜそれほどに普及したか、これもほとんど分からない。その後は老荘など道家の他の派と合流し、その姿を消したらしい。
前漢は儒教の伸張が目立つ時代であるが、同時に神秘思想もまた伸張していた。
例えば武帝の傾倒した神仙思想や当時流行した巫蠱など。そして神秘思想の中でも高度に理論化され、後世にも強い影響を与えたものとして陰陽五行説・天人相関説・災異説がある。
陰陽五行説はこの世の全ての事象は木火土金水の五行に分類され(例えば方角は木→東・火→南・土→中央・金→西・水→北となる。)、それが循環することでこの世が成り立っているという考えである。天人相関説・災異説は万物の総覧者たる天と人間は連関しあっておりもし人間が誤った行いをした場合、例えば時の皇帝が暴政を行うと、天はこれに対して天災を起こすという考えである。
FXに基づいて漢はどれに当てはまるかが前漢を通じて何度か話し合われており、紀元前104年に一旦漢は土徳の王朝であるとされた。秦は水徳の王朝であるとされており、その秦を克した[27]ので土徳とされたのである。しかし漢は火徳の王朝であるとの主張が哀帝期に劉向・劉?親子によってなされた。劉?によれば周は木徳であり、そこから生まれた漢は火徳であるとする[28]。これが王莽によって是認され、以後漢は火徳の王朝とされた。後漢末に起きた黄巾の乱や漢から禅譲を受けた魏の最初の元号が黄初であることは黄色が火徳の次に来る土徳[29]の色だからである。
天人相関説・災異説は董仲舒が唱えたものであり、この時代の儒教は多分にこういった神秘思想を含むものであった。董仲舒以降になるとこの神秘性は更に強くなり、未来までもこれにより予言できるとされた。これを讖緯という。
讖とは自然現象が何らかのメッセージを残すことであり、例えば昭帝時代に葉っぱの虫食い跡が文字になっており「公孫病已立」と読めたという。これは後に宣帝(病已は宣帝の諱)が皇帝になることを示していたとされた。緯とは経書に対しての緯書のことである。聖人の教えを書き記した経書であるが、経書はその大綱を示したものであり、現実の事柄に付いては緯書に記されているとされた。経はたていと・緯はよこいとのことで、たていととよこいとが揃って初めて布が出来上がるように緯書があってこそ聖人の教えが理解できるとされた。しかしその実態は漢代の人による偽作であると考えられる。なおこの讖緯のことを記した書物全てをひっくるめて緯書と呼ぶ場合もある。
FXにはこの緯書が大流行し、緯書を学ばないものは学界で相手にされないような状態になった。この状況を最大限に利用したのが王莽である。例えばある者が井戸をさらった所、その中から石が出てきてそこには「安漢公莽に告ぐ、皇帝と為れ。」と書かれていたと王莽に報告され、これを受けて仮皇帝となった。もちろんこの石自体が王莽の仕込んだことであると思われる。前述した漢を火徳の王朝としたことも王莽が自身を舜の子孫であると吹聴していたことに繋がっている[30]。
これらの神秘思想は前漢が滅び、後漢が建ってからはますます広まっていく。
このうちあるものは当時の書体である隷書体で書かれており、別のものは隷書体以前の書体で書かれていた。このことから前者を今文・後者を古文という。同じものを元にしているのであるから内容も基本的に同じであるが、微妙な差異があり、どちらがより正しく聖人の教えを伝えているかが論争になった。更に当時の経学は経書一つを専門的に学ぶものであり、そのためどの経書に学ぶかでこれも学派が様々に分かれることになった。一例を挙げれば『尚書』(『書経』)においては伏勝が壁に埋め込んで焚書の難を逃れたという『今文尚書』と景帝時代に孔子の旧宅の壁の中から発見されたという『古文尚書』がある。
このうち、『春秋公羊伝』を学ぶ公羊学派の立場から儒教の新しい地平を開いたといえるのが董仲舒である。董仲舒は武帝に対して天人相関説・災異説を唱え、儒教の教義を皇帝支配という漢の支配形態を正当付けるように再編した。董仲舒は武帝に対して儒家を官僚として登用すること・五経博士の設置などを建言した。[25]
前漢代には漢詩(例えば杜甫・李白のような)はまだ確立した存在ではなく、その基となる二つの流れが存在していた。
一つは『詩経』を源流とする歌謡の流れである。歌謡という言葉が示すように『詩経』に収められている詩は元々は音楽や舞踏と共に演奏されるものであった。この流れを受けて、武帝は楽府(がくふ)という部署を作り、李延年をその主管とし、民間の歌謡および西域からもたらされた音楽を収集し、新しい音楽の流れを作り出した。このようなものを楽府体(がふたい)と呼ぶ[32]。楽府はその詩の種類によって7・8種類の楽器を使う。管楽器では?(大型の笙。zh:?)・笙・笛・簫、弦楽器では瑟(大型の琴。zh:瑟)・琴・箜篌(ハープに似た楽器。zh:箜篌)・琵琶などである。楽府体の大きな特徴は五言詩であること、また賦に比べて表現の上では質素であり、民間の歌謡を淵源としていることから民衆の素朴な感情が出ていることなどである。これの代表としては李延年の「歌詩」が挙げられる。
もう一つは『楚辞』を源流とする賦の流れである。戦国から前漢初期には楚辞風の七言詩である「楚声の歌」と呼ばれる詩が盛んに謡われた。例えば高祖の「大風の歌」、項羽の「垓下の歌」などである。それが武帝期の司馬相如に至り大成され、賦が成立する。賦の特徴としてはまず『楚辞』を引き継いで七言であること、そしてある事柄に付いて描写に描写を重ね美しい言葉と対句で埋め尽くされたある種過剰なまでの表現である。司馬相如以外としては賈誼や武帝が挙げられる。司馬相如の代表作として「上林賦」が挙げられる。
前漢は既に2千年も前のことであり、その間に幾多の戦乱が起き、漢代の美術品は地上世界にはほとんど残らなかった。現在残る漢代の美術品はほとんどが地下世界、墳墓の中や窯跡など土の中に埋まっていたものである。このようなものを土中古という。
漢代では埋葬された死者は死後においてもそのまま墓中で生活を続けると考えられていた。始皇帝の兵馬俑も始皇帝が死後の世界で使うための兵士だった。これと同じように漢代の墳墓からは死者が使うための食器・家具などが大量に出てくる。王侯の墳墓などは実物そのものを入れる場合もあったが、それであると費用が莫大になってしまうために実際のものを模した土器を代わりに入れた。これを明器という。明器は非常にバリエーションに富み、食器・家具・家屋、ニワトリ・イヌなどの動物・身の回りの世話をするための奴隷・更には楽師や芸人といったものまであり、当時の生活の様子を物語ってくれる。もちろん本物の青銅器・陶磁器・漆器も大量に出土している。そのほかの副葬品として竹簡・木簡類が見つかることがあり、漢代の貴重な一次史料となっている。